「いのち」という言の葉種について(A1010) 

「いのち」とは、非常に深い意味を持つ言葉です。簡単に定義することは難しいですが、一般的には生命や生きている状態を指すことが多いですね。

「いのち」という言葉はいろんな分野、場面で語られ使われています。使い手がその場、その背景、その時期の状況、また本人の内面の状態により、微妙なニュアンスを表現する意図をもって選ばれ・使われていることがあります。

いくつか上げてみると。 生物的な「生きること」「生きる力」「生きている間」「生きていること」など生命または寿命にかかわる表現などがあります。 生物学的、科学的、さらには神秘的な視点からみる生物的な「いのち」は「命」と記されることも多くあり、細胞や遺伝子を基本として、成長、繁殖、代謝、自己修復などの生命活動を行うことによって定義される存在のことといえます。 

また「最も大切なもの」「唯一のよりどころ」「そのものの真髄」などさまざまな角度からとらえた生存の意義、心情の表現に使われることがあります。

さらには人間が自然に対する尊敬や感謝の象徴して、多くの場合に自然物に「いのち」が宿っているとして使われることがあります。

なお運命、天命といった天や神あるいはサムシングゴッドから与えられた定めや使命を意味することもあります。 

ただ、それ以上に「いのち」という言葉には存在そのものの価値や、その尊さ、儚さが含まれていると多くの人が感じて、使われることがあります。

 哲学的には、「いのち」はただの生物学的な現象ではなく、それぞれの人生や意味を織りなすものとも考えられます。例えば、生きる目的や他者とのつながり、または自然との共生を通して「いのち」の本質を感じる瞬間があるかもしれません。

宗教や文化また哲学によっても「いのち」の解釈は多様です。ある文化では「いのち」は永続する魂の一部と考えられ、別の文化では、今この瞬間の奇跡的な存在に焦点を当てています。

簡単に定義することが難しい「いのち」について、このブログでは人間という現存することすら奇蹟ともいえる存在としての「いのち」を考え。

また多くの動植物や水をはじめとする無機物、さらには多様な物体の集合としてはじめて意味を発揮するシステム体など自然物の「いのち」考え。

ヒトをとりまく、これら多様な「いのち」について、先人、先達の探求・探索された知見のをもとに、見えること、聞えること、見えないけれど存在するかもしれないことなどなどを、ヒトが自らを自然の一部として理解し、調和と共生を追求する視点から述べていきたいとおもいます。A1010